スシコマなオキ

50年に感謝。

昭和42年2月14日
ちょうど50年前 私が1歳とちょっとの時。
亡き父が 金沢市本町に寿し駒を開店しました。

富山出身の父、福井出身の母、
ほんのわずか少しの応援を糧に とあるお宅の土間をお借りして寿し駒はスタートしたのです。

ありがたいことに 50年前、今でもその当時からのお客様にお越しいただいてるんすよ♪

ここで歴史をちょっと。曖昧な記憶をたどっていきましょう。

あの頃は道路も砂利道で、自家用車もない テレビも白黒 トイレもどっぽん
ほんとに ちいさなちいさな お店でした。

2人とも何もないところから始め、貧しい生活。
お借りした土間を改造して作ったお店が生活空間の全てで、
お店のカウンターの後ろの桟敷で家族寝泊まりしていた写真が残っています。

その頃は父と母と私、そして2歳年上の兄がいました。
兄は病気で短い生涯でしたが、若くして我が子を亡くした親の辛さは想像を絶します。
自分だったらどうなっていたんだろうと思うだけで苦しいです。。

それから4年後 なにぶんにも手狭だったお店、生活空間との不便さもあって
5分ほど離れた借家を借りれることとなり、近所でしたが そこを離れて改装工事。

寿し駒初めての引越しでした。

当時5歳の私、近くの金沢幼稚園に通っていました。
ある日 突然、弟が現れました(笑)
子供心に母のお腹が大きくなっていることが怖くて、子供ができるということを全く理解していなかったので どこから弟がやってきたのか不思議でしょうがなかったのです。だからある日いきなり うわぁ!弟がどこからともなくやってきた!という認識なのです(笑)

その当時オイルショック以降の 好景気だったそうで、たくさんお客様に助けていただき とても儲かったと 親父が言うてたのを覚えています。 2人とも夜も寝ないで休みもなく働いた時代でした。
家族でどこかいった記憶がほとんどありません。ごくごく稀に大和デパートの屋上に連れて行って貰えたときは嬉しくてはしゃいだものです。国旗の立った焼き飯と赤ウインナーのお子様ランチの味は今でも忘れてません。

それから8年後 両親2人の夢。
自分の店(借家でなく)が持ちたいという2人の夢。
その夢が叶うことになります。(もちろん多額の借金ですが)
やはり近所の一軒家が手放されるということで売りに出されるという物件でした。
ある日親父が 見せてやると言って連れて行ってくれたのですが 普通の木造2回建ての民家で、お店の構えも何もなくて(あれ?お寿司屋をやめるのか・・・)と不安になったのを記憶しています。

契約を済ませた後なのでしょう、夜中にお酒を飲みながら2人涙を流して喜んでたのを偶然見てしまい その2人の涙は今でも目に焼き付いています。
今だからわかりますが 自分の親ながら、一体、どれだけ頑張ったのだろうと感服します。

そして寿し駒2回目の引越し。
金沢市安江町、そうです、今の場所なのです。

小将町中学に通っていた私。
初めて 弟と同じ共有スペースですが 自分の部屋を作ってもらって喜んだものです。
狭い4畳ぐらいの洋間に机2つ、弟と一緒というところが笑えますね。
懐かしい。。。。。

そうして私はやがて高校生になり、親に『ウチは貧乏だから私立の大学には行かせられないぞ!』と言われ、自分が学力のないことにはいっさい触れず 家計の事情で大学を断念。ということに(笑)
で、高校卒業後一人大阪へ。。。

料理人の道へと歩んでいくのでした。

5年間大阪で修行していたある日 確か年末だったかと、、
親父が53歳か54歳の頃なのかなぁ。。
いままでまじまじ見たこともなかった 親父の背中が小さく見えた日があったのです。
お店も暇そうで 母にそっと聞いてみると 最近体調が芳しくないとのことでした。
相当悩んでたのかな。。 腰痛と経営ストレスで、、

当時 大阪の曽根崎のお店で働かせてもらっていた私は、実家に戻るということは全く考えてなかった。
バブル景気もあってどこに行っても働き口はあったものです、東京、京都、アメリカなどいろんなお店からお話があったんですよ。
でも その親父の背中がずっと気になってしまって。。。次に帰った時もお客様に  『なおちゃん、いつ帰ってくるが?そろそろみんな待っとるぞ!』と言われ いつもは気にならない言葉が妙に引っかかったのを覚えてます。
親父も母も口では帰ってきて欲しいなんて言わなかったけど、、あれ、、、もしかして帰らないといけないないのかな。。。と、初めて家業というものを意識してしまった時でした。。
それから半年ほどずっと悩んで、帰る決心をし 親に告げ 大阪のお店を辞め 金沢に戻ったのです。

しかし、すぐには戻らず、地元の事も知りたかった私は 片町の料理屋、尾山町の割烹屋、駅前のホテル いろいろお世話になってから平成3年 1991年寿し駒の後継として戻ったのです。

その時に思い切って 今の建物、4階建ての借金コンクリートに新築したんです。
その借金に今でも苦しんでいます(笑)

それから21年間、親父と一緒に店に立ちました。
親父も私のようなこんな若造に遠慮しながら我慢しながらよく耐えたと思います。
言い争うこともしばしばあって 今でも唇かんだり 微笑んだり。。。

それから時が過ぎ、
10年前に弟を料理長として迎え、兄弟で切り盛りする店となりました。
その頃 親父も母も 一番、うれしかったのかなぁって。
もちろん家族といえど いろいろ問題は勃発してましたけどね。あははは。

親父が認知症という病気になってからもいろいろありました。
この病気に触れて、ほんとにいろいろ学びました。
言えることは 女将や母、子ども達、よく乗り越えてくれた家族に感謝です。

親父は平成24年3月 5年前に他界。ちょうど金婚式を迎える直前でした。
最期の方は 何ひとつ会話はできなかったけど、親父は寿し駒に全てを注いでいたことだけは知っています。

そして一昨年、弟は家族の都合で 神戸に引っ越していき とうとう家族で男は私一人になったのでした。

50周年という節目もあり、息子も名古屋の大学に進み後継をしないということや 同居する母の身体やいろいろ考え、
もう一度はじめに戻ろうと思い切って 改装をいたしました。

まだまだ 教わること多い毎日です。

いままでのすべての事忘れてることいっぱいあります。
でも、覚えてることもいっぱいあります。

言いたいのは いつもありがとうございます

50年前の私が小さい頃から52歳になる今日まで
ざっくりと寿し駒を紹介させていただきました。


ここで改めましてご挨拶。

これから母 紀代子 女将の紀子 そして 店主の私の3人で51年目へと 向かってまいります。
いかなる時も たくさんのご支援 ご愛顧を賜り 皆様のおかげで 今日まで寿し駒は歩んでくることができました。

これまでの皆様からの支えに対しまして 心より御礼申し上げます。
そして どうか皆さま 今後共 ご贔屓ご指導を よろしくお願いいたします。

50年間、ほんとうにほんとうにありがとうございます。

寿し駒のこだわりを これからも皆様にお約束申し上げ ご挨拶とさせていただきます。

尚、50周年に際しまして 記念パーティーなどは行いません。
期待してらした方々には 大変申し訳ありません。
そのかわり寿し駒にお越しいただきましたら ささやかではございますが 私の笑顔を差し上げます。

2011年、親父です

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48年前の私(すごい白黒)
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ありがとうございます。








寿し駒  細川 直紀


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by sushikoma | 2017-02-13 14:14 | 男としてのなおき
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